恵庭フットパス > 参加者の声

「いっしょに考えよう」 ヒグマとわたしたちのこと

2012-07-02

札幌市街地で初のクマ目撃(4月19日)

札幌、住宅街直近でヒグマ射殺(4月20日)

札幌のヒグマ駆除 市役所に抗議60件(4月21日)

これは札幌のヒグマ射殺事件を報道した北海道新聞の記事の見出しです。テレビでも報道されましたが、皆さんはこの事件をどう受け止めたでしょうか。 「クマがかわいそう」「殺さない方法はなかったの」 「でも、危害を加えられる人のことを考えると仕方がない」 「小学校が近くにあり、子どもが襲われたらどうするの」。いろんな受け止め方があると思います。

殺されたクマは、推定2、3歳の雄で体長約135センチ、体重約120キロだったそうです。札幌市が地元の猟友会に出動を要請し、猟友会は発見後すぐクマを射殺しまいました。

「ひもじくて、切なくて」

こうした事件でいつも思い出すのは、千歳に住んでいるアイヌの古老、姉崎等さんの言葉「クマは泣きながら森をあるいているんだよ」です。姉崎さんはいまは引退していますが、74歳まで支笏湖周辺でヒグマの伝統的狩猟をしてきた人です。山の森は広葉樹から針葉樹に変わり、クマの大事な食べ物であるドングリがなくなって、「切なくてどうにもならなくて里に出てくるのさ」というのです。

クマは冬の間、山の中で穴にこもり、冬眠します。雌は穴の中で出産し、子は1〜2歳を過ぎると親離れし、自立します。射殺された雄クマは2〜3歳と推定されていますが、この頃のクマは親離れしたばかりで好奇心が強く、行動も判断も不安定で最も危険な年頃です。人間でいえば、中学生か高校生ぐらいですね。まだ人間の怖さを知らず、冬眠から覚めたばかりでお腹を空かしていたのかもしれません。食べ物を求めて住宅街の近くに迷い込んでしまったのでしょうか。

でも、私は射殺してほしくないです。札幌市に抗議の電話はしませんでしたが、悲しくてつらい気持ちになりました。

殺さなくてすむ方法は?

殺さなくても、ここはクマが来てはいけないところだよと教えてあげればいいと思います。その方法としては、犬を連れて山に追い出す、鉛の銃弾の代わりにゴム弾、花火弾で脅かし、2度と里に近づかないようにする。こうした方法はヒグマとの共生の道を探っている知床の斜里町で実際に行われているのです。

ヒグマが住宅街に出没しないよう、予防することも大切です。アイヌの人たちは、ヒグマには「キムンカムイ(山の神)」と「ウェンカムイ(悪い神)」がいると言います。キムンカムイは奥山で穏やかに生きる普通のクマ、ウェンカムイは人間が山に放置したゴミに餌づいてしまったりして、次々と問題を起こす危険なクマです。だから、キャンプや山に入った時ゴミは残さず持ち帰ることが大切です。  北海道の野生動物の頂点にいるヒグマは、自然の豊かさをはかる「ものさし」です。ところがその豊かな森が少なくなって、ヒグマの生息数は2,000頭を割ってしまいました。北海道のヒグマは絶滅の射程に入ったとも言われています。  ヒグマが生きていくために必要なことは、ドングリが豊富な自然林を復活させることです。それは私たち人間が生きていくための自然を守り育てていくことでもあるのです。  恵庭の盤尻から支笏湖方面には豊かな自然が広がり、そこにヒグマが住んでいます。そのことを私たちの誇りにしたいですね。同時に、盤尻の豊かな自然を守り育てていくことが私たちの責務でもあるのです。

(えにわ子ども新聞2012年5月17日号寄稿)

北海道を代表するフットパス<かみふらのパス>

2009-08-29

北海道を代表するフットパス<かみふらのパス> 2009.8.29,30

 8月29,30日の両日,第11回全道フットパスの集いが上富良野町で開かれた。今回は250人からの参加と始まって以来の大盛況だったようだ。
 私は用務があって、残念ながら30日のウォーキングしか参加できなかった。
 前日の夜に上富良野に入り,ペンションに泊まった。こぎれいなそのペンションは食堂の大きな窓からの景色がすばらしく、大パノラマを見ながら朝食をいただいた。
 翌日のウォーキングは千望峠パス、約10kmの行程だ。天候に恵まれ、気持ちいい朝を迎えた。上富良野町公民館に集合し、バスでスタート地点の千望峠へ向かう。峠からの眺望もすばらしく、緑の中に広がる市街地全景が見え、その向うに十勝岳の大パノラマがくっきり見える。右から前富良野岳,富良野岳,美瑛岳,美瑛富士,トムラウシ。
 いよいよ出発。かつてない長蛇の列が伸びていく。途中、ジャガイモを収穫する人たちの姿、茶色と薄い緑,濃い緑のパッチワークの畑が広がり,その向うにいつも見える山々の姿、緑の回廊,貯水池と変化に富んだコースを歩きながら、秋の空気を胸いっぱい吸い込んだ。
 かみふらのパスは本場イギリスのフットパスを想像させる、本格的な、北海道を代表するフットパスと言って、言い過ぎではないと思う。(T) *フォトライブラリーもご参照ください。

1月18日・薩摩琵琶弾き語り「なめとこ山の熊」恵庭公演を終えて

2009-01-19

1月18日・薩摩琵琶弾き語り「なめとこ山の熊」恵庭公演を終えて
2009.1.18

 冬の北海道は吹雪いたりすると出足が鈍る。そんな心配を打ち消すようにその日は朝から晴れ上がった。開演は2時だが、市民会館の平台を会場の恵み野会館まで運ぶために朝9時過ぎから行動開始。トラックを手配してくれた三浦さんと太田屋さんが先に市民会館に到着していた。準備過程で出てきた問題をクリアし、何とかここまでたどり着けたのも、私たちのすてきな実行委員のメンバーの力だ。
 さて、リハーサルの準備と会場づくりが始まった。クラムボンの会の公演の醍醐味は何といってもこの直接性だ。プロの俳優と、公演を主催するのは初めてという素人集団が協同作業を始める。林さんはもうここから全身でぶつかってくる。林さんの妥協を許さない指示が飛び、緊張が走る。それもこれも観客との1回性の出会いを大切にしたいとの思いからか。
 思えば、スーツケースに入るだけの舞台道具と楽器をもって、林さんは「出会うために」トコトコ、トコトコと全国どこにでも出かけてきた。今回の恵庭公演は何と1,501回目。林さんを1,500回照らし出してきた、なつかしい調光器付きの2本のスポットライトを立てながら、この29年間に出会った人たちから林さんはどんな時代の変化を見てきたのだろうと思った。
 そう、20数年まえ、このスポットライトが北は稚内から南の函館まで全道津々浦々を駆け巡ったのだ。1981年1ヵ所、82年7ヵ所、83年21ヵ所、84年19ヵ所、85年10ヵ所、86年7ヵ所、87年4ヵ所。とくに83年、84年の北海道公演は、1カ月間の長期ラン。まるで熱に浮かされるように公演が全道に広がった。主催するお母さんたちのエネルギーはすごかった。あの時代、なぜあんなに盛り上がったのか、
 80年代は、二度の石油ショックを経て、近代工業社会や環境を破壊する大量消費社会の限界が見えて来て、これまでの生き方の問い直しが始まった時代だった。お母さんたちも自然の中で子どもを育てようとし、子どもたちに安全な食品を食べさせようと共同購入の運動が広がった時期でもあった。こうした時代背景と賢治の精神がフィットしたのだろうか。
 そして今。すべてのいのちはつながっている,支えあっている,循環している、という賢治の精神をいっそう、時代は必要としている。
 さあ、いよいよ開場。チケットの販売状況から用意した椅子は80席。しかし、あれよあれよという間に席は埋まり、慌てて椅子を補充して、開演時には150席に達した。林さんの公演にはいつも、見えない力が働いているような気がする。
 そして、クラムボンの会の公演は、関わった人みんなをカプカプと元気にしてくれる。北海道はいま、消費減退、公共事業減と農産物の価格低迷で経済は停滞、厳しい雇用状況が続き、高齢化がいっそう進む地域は、疲弊する一方だ。そんな北海道を元気にする「クラムボン作戦」が近く始まるかもしれない。

サケの遡上と紅葉ウォーキング〜恵庭公園・長都川コース

2008-10-26

サケの遡上と紅葉ウォーキング〜恵庭公園・長都川コース
2008.10.26

雨模様の日曜日。中止のつもりで恵庭駅西口へ。すると札幌組はじめ千歳や市内から続々と集まり(11人)、雨が降っても行きましょうということに。
恵庭公園は早くも冬の佇まい。それでも、落ち葉のフカフカしたじゅうたんの上を歩いていくと、枯れ木の中でモミジが見事に赤くなっていました。そして、落ち葉の中からきのこが顔を出し、ヤマブドウがたくさん落ちていました。
長都川は雨のせいで水量が増え、水が少しにごっていましたが、時折聞こえるパシャパシャという音の方を見ると俎上するサケが上流に上がっていくのが見えました。相変わらず長都川沿いの紅葉はピークを過ぎても見ごたえがありました。

秋晴れの下、オカリナ演奏を楽しむウォーキング

2008-10-13

秋晴れの下、オカリナ演奏を楽しむウォーキング
2008.10.13

 オカリナ演奏と歴史を楽しむウォーキング と銘打って、体育の日の13日、「旧島松駅逓・島松川コース」を歩きました。
 秋晴れのもとに集まった19人。午前10時にJR島松駅前をスタート。途中の田園風景は収穫も終わって秋深しという印象。小ぶりのひまわり畑が広がる向こうに、支笏湖の山々が遠望できました。
 紅葉には少し早かったようですが、すでに真っ赤に色づいた葉をあちこちで見ることが出来ました。島松川の水面をのぞきながらのウォーキング。足元に目を落とすとどんぐりの実がいっぱい落ちていました。今年は実りがいいようです。
 国道36号の下をくぐりぬけると島松駅逓。ここの紅葉はあざやかでした。クラーク博士の石碑の前にはすでに<オカリナサークル風の歌>の皆さんがお待ちかねでした。
 円形に並んだ譜面台の前に立った皆さんが、色とりどり、大小さまざまなオカリナを口元に、早速演奏を始めました。オカリナの音色は、暖かい陽射し、葉をゆらす風の音、真っ赤な紅葉と見事に溶け込んで、私の目の中に、耳の中に、体の奥底に時間を越えて、深く入っていくようでした。
 演奏が終わるや否やアンコールの声がおこり、オカリナサークルの皆さんはこれに答えてくださいました。私たちのウォーキングにビッグなプレゼントをしてくれた「風の歌」に感謝、感謝!
本当にありがとうございました。
 実は、今回の演奏とウォーキングのドッキングが実現したのは、今年恵庭でスタートした、市民が市民活動を支援する制度「恵庭ブーケトス」のおかげです。今年、この制度に参加した市民団体が一堂に会する「公開プレゼンテーション」とその後の交流会で、市民団体同士のつながりが生まれたのです。「こんな素敵な活動をしている市民団体があるんだ」とお互い顔の見える関係、協力する関係が生まれたのです。自然に近い音色を出すオカリナとウォーキングはマッチするよね、一休みする場所で演奏してはどうだろう、そんな私たちの思いに「オカリナサークル風の歌」は快く応えてくださいました。
 およそ10キロのウォーキングを終えて、解散地点の島松駅前に戻ったみんなの表情からは十分、満足感がうかがえました。

全道フットパスの集いinえりも

2008-09-29

全道フットパスの集いinえりも
2008.9.28

 第9回全道フットパスの集いがえりも町で9月27,28日の二日間にわたり開催された。私は、用務のため27日の夜にえりもに入り、28日の猿留(さるる)山道のウォーキングに参加した。
 えりも町には残念ながら温泉はない。良さそうな旅館を選んで予約したが、行ってわかったのは、旅館があるえりも岬は、集いが開かれる本町から15分もかかる場所だったこと。
 夜7時を過ぎれば襟裳岬に向かう道路は行き交う車も無く真っ暗。見ると、正面の黒い夜空に真っ逆さまに落ちる一筋の光が。流れ星だ。灯台の回転する明かりに近づき、カーブを曲がった先に今晩泊る宿「えりも○○館」があった。
 数日前から北海道は一気に気温が下がり、朝晩の冷え込みが厳しくなった。この日も旅館の部屋は冷えていて、部屋のストーブ(何とポータブル)をマッチで点火したところ、石油臭くてどうにもならない。食事(鹿肉のしゃぶしゃぶが出た)もお風呂も部屋もまずまずだけど、このポータブルストーブの石油臭さはどうにもがまんならない。これが北海道の旅館のだめなところ。本州から来たお客さんはどう思うだろう!?ストーブを消し、お風呂に入って体を温め、早々に寝た。
 翌朝目が覚めると晴天。窓の外は太平洋が広がり、絶景だ。波の上には何艘もの漁船が浮かんでいる。宿のオーナー(または支配人?)に聞くと、今日はえりもには珍しく、風のない好天にめぐまれ、今年最後の昆布漁でにぎわっているとのこと。

 猿留山道ウォーキングの出発地点までは車で移動。えりも町の本町から国道336号を通ってと十勝側へ。庶野に出て、海沿いを走って目黒漁港から、内陸へ向かう。一部舗装された林道を通って、猿留山道入り口へ。さあー、出発。
 ロシアの南下政策の下で北方警備の重要性から、江戸幕府は1799(寛政11)年、松前から太平洋岸を通る根室までの陸路の整備を行ったが、その一環として開削されたのが、猿留山道である。チシマザサに覆われたこの山道を復元しようと、えりも町民有志が思い立ったのは1997年。そして、猿留山道復元ボランティア事業を実施して3年間で、この山道を一通り歩けるようになった。
 斜面を横切るようにならだらかな傾斜の山道が続く。足元には緑色や茶色のどんぐりが無数に落ちている。ここは豊かな針広混交林地帯で、ヒグマの生存環境がまだ残されている数少ない場所のようだ。鹿のフンとともに、ヒグマのでかいフンを2箇所で見つけた。遠く太平洋を眺めながら、1時間ほど歩くと沼見峠に出た。
 沼見峠からは片方に太平洋を遠望し、反対側には小さな湖「豊似湖」を見下ろせた。豊似湖は日高山脈唯一の自然湖で周囲わずか2kmに満たない小さな堰止湖。入る川もなければ、出て行く川もない。水面はきれいなコバルト色。上から見るとハート型をした湖だ。松浦武四郎の「竹四郎廻浦日記」にはこの湖は「カムイトー」と書かれている。
 峠には「妙見菩薩」と「馬頭歓世音菩薩」の二つの碑があったが、これは何と江戸時代の1859年と1861年に建立されたとのこと。
 峠から観音岳の反対側に少し登ると見晴らしのよい場所に出、百人浜から襟裳岬を一望することができる。高所恐怖症の私は残念ながら、そこまで登らず峠で待つことにした。
 帰りは反対側の斜面をジグザクに下り、豊似湖に出て、昼食休憩。湖は静かな佇まいで、透き通った湖面を見せていた。紅葉時期にまた来てみたいと思いながら屋久島のような雰囲気の漂う林道を再びバスに揺られて帰路に着いた。
 それにしても測量機材のなかった時代にどうやって日高から十勝に抜ける山道をつくったのか興味深々。
 帰りは何年ぶりかの襟裳灯台にたって岬の先の景色を楽しんだ。

歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士

2008-07-07

歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士 7月6日(日)
2008.7.7

(1)連日、夏日が続いている。この日も予想は31度を超す真夏日。午前9時、JR島松駅前には20人余りの参加者が集まった。
 今日のウォーキングのコースは,出発地点の島松駅からその西側に広がる田園地帯を横切って島松川の南部橋に出る。そこから島松川左岸を上流に向かって島松駅逓所まで歩き、昼食休憩し、終着地点のJR恵み野駅までの約10kmの道のり。

○農産物を運び出した島松駅
 島松駅前には商店街はなく殺風景な駅前なのだけど、近くに島松軟石でつくられた旧農協倉庫が見られ、何ともいえない趣がある。ここに駅ができたのは1925(大正15)年。
 明治・大正時代に札幌に行くのは、千歳川を船で下ったり、室蘭街道(旧国道36号)の約28キロを馬車や徒歩で行くしかなかった。1925年に札幌と苫小牧に鉄道の線路を敷くことになった。当時の市街地は恵庭と島松に別れていたため,駅も恵庭駅と島松駅に別れた。島松駅からは農産物、恵庭駅からは盤尻の材木等が運ばれた。汽笛第一声はその年の8月21日。恵庭から札幌までは1時間10分かかった。いまでも普通列車で30分だから、結構、早かった。
 
(2)島松駅から道々恵庭江別線を越えると、丘のようになった田園風景が広がる。直線道路を歩いていくと恵庭市の農業改良センターの色鮮やかなお花畑が目に入る。畑にはじゃがいもの白い花が連なっている。おしゃべりをしながら歩いていると島松川南部橋に到着した。

○ 東西蝦夷地の国境〜島松川
  蝦夷地(北海道)は当時、松前藩が支配していた。しかし、幕府はロシアの南下政策の前で松前藩のみで対応するのは無理があると、1799年、蝦夷地を東西に分けることにした。そして、太平洋側の東蝦夷地を幕府の直轄地とし、島松川がその境界線となった。

(3)島松川に沿う道は、右手に深い森が広がり、その際を歩いていく道だ。四季折々、森はきっとさまざまな表情を見せるのだろう。しばらく歩くと遠くに高い橋げたの上を走る国道36号と並走する高速道路のコンクリートの橋が見え、農家が点在するようになる。ここが恵庭発祥の地・島松沢だ。
 島松川にかかる橋・広恵橋は、この島松沢の里にフィットした情緒豊かな橋だったが、改良工事で立派な橋が今年の3月に完成し、すっかり情緒はなくなってしまった。ちなみに名前の「広恵」は北広島市と恵庭市の市境にある橋であることを示している。
 さらに、先に進むと右手にチャシ跡の案内看板が見えたが、チャシそのものは道ばたからは見えない。農家の廃屋もあり、島松軟石でつくられたサイロが少し傾いているのが印象的だった。

○ 島松沢
 谷底の集落、島松沢が日本海と太平洋を結ぶ交通路「札幌越新道」として開かれたのは明治維新の直前の1856年。その後、札幌本道、室蘭街道、弾丸道路、国道36号などと名前を変えながら、大動脈であり続け、その最大の難所として、また要所として歴史に名を残してきた。その島松沢は、1985年に谷をひとまたぎする国道の高い橋ができて、今は静かな環境の中でひっそりと息づいている。
 1872(明治5)年に札幌本道(現国道36号)の工事が始まり、合わせて島松駅逓所新設工事(明治6年)も始まった。当時の恵庭の人口は10〜20人と言われるが、島松沢には100人余りの労務者が働き、飯場の周辺には食料品店や茶店が15〜16軒、遊郭まで出現したという。
 島松川は、明治になってからは石狩国と胆振国の国境となった。クラーク博士が学生と別れたのは、ここが国境であったからと伝えられている。

○ 島松川左岸のチャシ跡
  季節毎に上がって来る島松川の豊かな魚、クリやドングリなどの山の幸が豊富な この地は、北の山を背にし南に開けた温かい理想的な環境にあり、石器時代から縄 文・擦文・アイヌ文化時代へと営々と集落が営まれたようだ。チャシは神聖な祭りの場として、また緊急避難用・防御用として築かれたと言われている。

(4)国道36号下の50メートルくらいのトンネルを抜けるとそこが旧島松駅逓所。そこに待っていただいたのは、「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」の会長佐伯昇さん。佐伯会長は、北海道大学を退官後、長く住んでいる恵庭の歴史や産業遺産・文化遺産を発掘し市民に紹介する活動をされており、昨年はこの旧島松駅逓所にたくさんの人を集めて「クラーク博士さようなら130周年フェスタ」を主催した。今回は、この島松駅逓所のガイドをお願いして、来ていただいた。
 島松川の右岸が恵庭で,左岸が北広島。今日まで残っている旧島松駅逓所やクラーク博士記念碑、寒地稲作発祥の碑は全部、北広島市側にある。しかし、駅逓所はその取扱人の3代までは実は恵庭市側にあり、4代目の取扱人になった中山久蔵が彼の邸を駅逓に使ったことから北広島に移ったことが調査で分かった。「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」では、最初の駅逓所があった場所に案内板を立てた。
 その案内板には「駅逓は明治6年に建てられた。札幌本道は北海道の玄関口の函館と開拓使本庁が置かれた札幌を結ぶ我が国最初の長距離馬車道で,この道の完成をまって、明治5年に駅逓の設置が決定された」「駅逓では人馬の継ぎ立て、宿泊、食料の提供、公用状の逓送などの業務が行なわれた」とある。
 4代目駅逓取扱人となる中山久蔵は、明治4年に島松沢に入植し、道南から移植した赤毛種の稲からこの地方に適する地米を幾多の苦労の末につくり出し,寒地稲作の祖といわれているが、ここがそれを成功させたと地でもある。
 また、明治10年には日本の教育界に偉大な功績を残したクラーク博士と学生たちが別れを惜しんだ場所でもある。ウィリアム・スミス・クラーク氏はマサチューセッツ工科大学の学長であったが、明治9年開拓使に招かれ札幌農学校の教頭になった。わずか9カ月の在任であったが、大きな影響を残して明治10年4月16日に“Boys, be ambitious”の言葉を残して,この地を去った。
 「教育は知識を授けるのではなく、志を育てること」「クラークさんが残した言葉はもうひとつあった。それは“Be gentlman”」、人柄がにじみ出る佐伯先生の説明に参加者は耳を傾ける。
 1人がクラーク博士はこのあとどこへ向かったのですかと質問。博士は函館から船に乗って長崎に行き、そこから横浜に戻ったという(当時、函館からは長崎航路しかなかった)。帰米後の博士は不遇をかこったそうだ。

長都川を紅葉ウォーキング

2007-10-21

長都川を紅葉ウォーキング(07.10.21)


 昨年も歩いたこのコースは恵庭公園、農家レストラン「ミルクのアトリエ寺田」、長都川からサッポロビール庭園駅までの6〜7キロコースです。

 時おり小雨がぱらつく寒い日曜日でしたが、恵庭駅西口から出発しました。駅前通りを歩いていくと街路樹に小さいリンゴがたわわになっていました、エゾノコリンゴです。なかには少し大きめのリンゴも。樹木に詳しいウォーカーがヒメリンゴと教えてくれました。

 晩秋の恵庭公園は黄色い落ち葉を敷き詰めたジュータンのような道を歩きます。思わず、参加者の口から「冬ソナのよう」。シジュウカラのなき声を耳に、足下に目を凝らすとドングリがあちこちに。ミズナラだけでなく、カシワのドングリもたくさん落ちていました。

 恵庭公園を抜けると一転、田園風景に。遠く支笏湖の山並みを見ながら直線道路を「ミルクのアトリエ寺田」へ。芝生の上で昼食。目立たないところに名馬ならぬ名牛の碑があった。開拓時代が偲ばれる。

 寺田牧場を出発する頃には晴れ間も見え始めた。ガーデンカフェ駅あたりの並木道もすばらしい。雑木林のなかの坂道を下りきると長都川だ。昨年と比べると紅葉のピークはまだかなと思ったが、長都川を少し上流にのぼると道の両側の木々は見事な朱色に染まっていた。

 透き通るような清流をのぞきながら、川沿いを下っていく。真っ赤に染まったもみじが鮮やか。やっぱり長都川の紅葉は最高だ。パシャという音のする川面に目を向けると何と何と、5〜6匹のサケが長都川を遡上しているではないか。しっぽの方が擦り剥けて真っ白のサケも。浅瀬で川床の岩や石にしっぽをぶつけながら一生懸命のぼって来た痕跡か。子孫を残すために二度と下ることのない川をのぼっていくその姿は神聖そのものだ。

 アカゲラのおまけ付きで紅葉ウォーキングは終わった。サッポロビール工場で打ち上げのビールを飲む参加者の顔には充実感が。

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