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歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士

2008-07-07

歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士 7月6日(日)
2008.7.7

(1)連日、夏日が続いている。この日も予想は31度を超す真夏日。午前9時、JR島松駅前には20人余りの参加者が集まった。
 今日のウォーキングのコースは,出発地点の島松駅からその西側に広がる田園地帯を横切って島松川の南部橋に出る。そこから島松川左岸を上流に向かって島松駅逓所まで歩き、昼食休憩し、終着地点のJR恵み野駅までの約10kmの道のり。

○農産物を運び出した島松駅
 島松駅前には商店街はなく殺風景な駅前なのだけど、近くに島松軟石でつくられた旧農協倉庫が見られ、何ともいえない趣がある。ここに駅ができたのは1925(大正15)年。
 明治・大正時代に札幌に行くのは、千歳川を船で下ったり、室蘭街道(旧国道36号)の約28キロを馬車や徒歩で行くしかなかった。1925年に札幌と苫小牧に鉄道の線路を敷くことになった。当時の市街地は恵庭と島松に別れていたため,駅も恵庭駅と島松駅に別れた。島松駅からは農産物、恵庭駅からは盤尻の材木等が運ばれた。汽笛第一声はその年の8月21日。恵庭から札幌までは1時間10分かかった。いまでも普通列車で30分だから、結構、早かった。
 
(2)島松駅から道々恵庭江別線を越えると、丘のようになった田園風景が広がる。直線道路を歩いていくと恵庭市の農業改良センターの色鮮やかなお花畑が目に入る。畑にはじゃがいもの白い花が連なっている。おしゃべりをしながら歩いていると島松川南部橋に到着した。

○ 東西蝦夷地の国境〜島松川
  蝦夷地(北海道)は当時、松前藩が支配していた。しかし、幕府はロシアの南下政策の前で松前藩のみで対応するのは無理があると、1799年、蝦夷地を東西に分けることにした。そして、太平洋側の東蝦夷地を幕府の直轄地とし、島松川がその境界線となった。

(3)島松川に沿う道は、右手に深い森が広がり、その際を歩いていく道だ。四季折々、森はきっとさまざまな表情を見せるのだろう。しばらく歩くと遠くに高い橋げたの上を走る国道36号と並走する高速道路のコンクリートの橋が見え、農家が点在するようになる。ここが恵庭発祥の地・島松沢だ。
 島松川にかかる橋・広恵橋は、この島松沢の里にフィットした情緒豊かな橋だったが、改良工事で立派な橋が今年の3月に完成し、すっかり情緒はなくなってしまった。ちなみに名前の「広恵」は北広島市と恵庭市の市境にある橋であることを示している。
 さらに、先に進むと右手にチャシ跡の案内看板が見えたが、チャシそのものは道ばたからは見えない。農家の廃屋もあり、島松軟石でつくられたサイロが少し傾いているのが印象的だった。

○ 島松沢
 谷底の集落、島松沢が日本海と太平洋を結ぶ交通路「札幌越新道」として開かれたのは明治維新の直前の1856年。その後、札幌本道、室蘭街道、弾丸道路、国道36号などと名前を変えながら、大動脈であり続け、その最大の難所として、また要所として歴史に名を残してきた。その島松沢は、1985年に谷をひとまたぎする国道の高い橋ができて、今は静かな環境の中でひっそりと息づいている。
 1872(明治5)年に札幌本道(現国道36号)の工事が始まり、合わせて島松駅逓所新設工事(明治6年)も始まった。当時の恵庭の人口は10〜20人と言われるが、島松沢には100人余りの労務者が働き、飯場の周辺には食料品店や茶店が15〜16軒、遊郭まで出現したという。
 島松川は、明治になってからは石狩国と胆振国の国境となった。クラーク博士が学生と別れたのは、ここが国境であったからと伝えられている。

○ 島松川左岸のチャシ跡
  季節毎に上がって来る島松川の豊かな魚、クリやドングリなどの山の幸が豊富な この地は、北の山を背にし南に開けた温かい理想的な環境にあり、石器時代から縄 文・擦文・アイヌ文化時代へと営々と集落が営まれたようだ。チャシは神聖な祭りの場として、また緊急避難用・防御用として築かれたと言われている。

(4)国道36号下の50メートルくらいのトンネルを抜けるとそこが旧島松駅逓所。そこに待っていただいたのは、「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」の会長佐伯昇さん。佐伯会長は、北海道大学を退官後、長く住んでいる恵庭の歴史や産業遺産・文化遺産を発掘し市民に紹介する活動をされており、昨年はこの旧島松駅逓所にたくさんの人を集めて「クラーク博士さようなら130周年フェスタ」を主催した。今回は、この島松駅逓所のガイドをお願いして、来ていただいた。
 島松川の右岸が恵庭で,左岸が北広島。今日まで残っている旧島松駅逓所やクラーク博士記念碑、寒地稲作発祥の碑は全部、北広島市側にある。しかし、駅逓所はその取扱人の3代までは実は恵庭市側にあり、4代目の取扱人になった中山久蔵が彼の邸を駅逓に使ったことから北広島に移ったことが調査で分かった。「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」では、最初の駅逓所があった場所に案内板を立てた。
 その案内板には「駅逓は明治6年に建てられた。札幌本道は北海道の玄関口の函館と開拓使本庁が置かれた札幌を結ぶ我が国最初の長距離馬車道で,この道の完成をまって、明治5年に駅逓の設置が決定された」「駅逓では人馬の継ぎ立て、宿泊、食料の提供、公用状の逓送などの業務が行なわれた」とある。
 4代目駅逓取扱人となる中山久蔵は、明治4年に島松沢に入植し、道南から移植した赤毛種の稲からこの地方に適する地米を幾多の苦労の末につくり出し,寒地稲作の祖といわれているが、ここがそれを成功させたと地でもある。
 また、明治10年には日本の教育界に偉大な功績を残したクラーク博士と学生たちが別れを惜しんだ場所でもある。ウィリアム・スミス・クラーク氏はマサチューセッツ工科大学の学長であったが、明治9年開拓使に招かれ札幌農学校の教頭になった。わずか9カ月の在任であったが、大きな影響を残して明治10年4月16日に“Boys, be ambitious”の言葉を残して,この地を去った。
 「教育は知識を授けるのではなく、志を育てること」「クラークさんが残した言葉はもうひとつあった。それは“Be gentlman”」、人柄がにじみ出る佐伯先生の説明に参加者は耳を傾ける。
 1人がクラーク博士はこのあとどこへ向かったのですかと質問。博士は函館から船に乗って長崎に行き、そこから横浜に戻ったという(当時、函館からは長崎航路しかなかった)。帰米後の博士は不遇をかこったそうだ。

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