恵庭フットパス > 2008年

活動実績(2008年)

2008-12-01

(1) ウォーキング

  • 6月22日 柏木川の遺跡を歩く
  • 7月6日 歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士 「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」会長佐伯昇のお話
  • 7月20日 見渡す限りの田園地帯を歩く 開拓3代目山本一一さんのお話
  • 10月13日 オカリナ演奏と歴史を楽しむウォーキング 「旧島松駅逓・島松川コース」
  • 10月26日 紅葉とサケの遡上ウォーキング 「恵庭公園・長都川コース」 

(2) 講演会/自然と命を育むヒグマのお話(12月13日,恵み野会館)
講演「ヒグマが住む森」 講師・前田菜穂子さん

(3) 恵庭フットパスマップ第2版発行:5000部
配布先:恵庭道と川の駅、JR島松駅・恵み野駅・恵庭駅 えにわ市民プラザ・アイル

サケの遡上と紅葉ウォーキング〜恵庭公園・長都川コース

2008-10-26

サケの遡上と紅葉ウォーキング〜恵庭公園・長都川コース
2008.10.26

雨模様の日曜日。中止のつもりで恵庭駅西口へ。すると札幌組はじめ千歳や市内から続々と集まり(11人)、雨が降っても行きましょうということに。
恵庭公園は早くも冬の佇まい。それでも、落ち葉のフカフカしたじゅうたんの上を歩いていくと、枯れ木の中でモミジが見事に赤くなっていました。そして、落ち葉の中からきのこが顔を出し、ヤマブドウがたくさん落ちていました。
長都川は雨のせいで水量が増え、水が少しにごっていましたが、時折聞こえるパシャパシャという音の方を見ると俎上するサケが上流に上がっていくのが見えました。相変わらず長都川沿いの紅葉はピークを過ぎても見ごたえがありました。

秋晴れの下、オカリナ演奏を楽しむウォーキング

2008-10-13

秋晴れの下、オカリナ演奏を楽しむウォーキング
2008.10.13

 オカリナ演奏と歴史を楽しむウォーキング と銘打って、体育の日の13日、「旧島松駅逓・島松川コース」を歩きました。
 秋晴れのもとに集まった19人。午前10時にJR島松駅前をスタート。途中の田園風景は収穫も終わって秋深しという印象。小ぶりのひまわり畑が広がる向こうに、支笏湖の山々が遠望できました。
 紅葉には少し早かったようですが、すでに真っ赤に色づいた葉をあちこちで見ることが出来ました。島松川の水面をのぞきながらのウォーキング。足元に目を落とすとどんぐりの実がいっぱい落ちていました。今年は実りがいいようです。
 国道36号の下をくぐりぬけると島松駅逓。ここの紅葉はあざやかでした。クラーク博士の石碑の前にはすでに<オカリナサークル風の歌>の皆さんがお待ちかねでした。
 円形に並んだ譜面台の前に立った皆さんが、色とりどり、大小さまざまなオカリナを口元に、早速演奏を始めました。オカリナの音色は、暖かい陽射し、葉をゆらす風の音、真っ赤な紅葉と見事に溶け込んで、私の目の中に、耳の中に、体の奥底に時間を越えて、深く入っていくようでした。
 演奏が終わるや否やアンコールの声がおこり、オカリナサークルの皆さんはこれに答えてくださいました。私たちのウォーキングにビッグなプレゼントをしてくれた「風の歌」に感謝、感謝!
本当にありがとうございました。
 実は、今回の演奏とウォーキングのドッキングが実現したのは、今年恵庭でスタートした、市民が市民活動を支援する制度「恵庭ブーケトス」のおかげです。今年、この制度に参加した市民団体が一堂に会する「公開プレゼンテーション」とその後の交流会で、市民団体同士のつながりが生まれたのです。「こんな素敵な活動をしている市民団体があるんだ」とお互い顔の見える関係、協力する関係が生まれたのです。自然に近い音色を出すオカリナとウォーキングはマッチするよね、一休みする場所で演奏してはどうだろう、そんな私たちの思いに「オカリナサークル風の歌」は快く応えてくださいました。
 およそ10キロのウォーキングを終えて、解散地点の島松駅前に戻ったみんなの表情からは十分、満足感がうかがえました。

全道フットパスの集いinえりも

2008-09-29

全道フットパスの集いinえりも
2008.9.28

 第9回全道フットパスの集いがえりも町で9月27,28日の二日間にわたり開催された。私は、用務のため27日の夜にえりもに入り、28日の猿留(さるる)山道のウォーキングに参加した。
 えりも町には残念ながら温泉はない。良さそうな旅館を選んで予約したが、行ってわかったのは、旅館があるえりも岬は、集いが開かれる本町から15分もかかる場所だったこと。
 夜7時を過ぎれば襟裳岬に向かう道路は行き交う車も無く真っ暗。見ると、正面の黒い夜空に真っ逆さまに落ちる一筋の光が。流れ星だ。灯台の回転する明かりに近づき、カーブを曲がった先に今晩泊る宿「えりも○○館」があった。
 数日前から北海道は一気に気温が下がり、朝晩の冷え込みが厳しくなった。この日も旅館の部屋は冷えていて、部屋のストーブ(何とポータブル)をマッチで点火したところ、石油臭くてどうにもならない。食事(鹿肉のしゃぶしゃぶが出た)もお風呂も部屋もまずまずだけど、このポータブルストーブの石油臭さはどうにもがまんならない。これが北海道の旅館のだめなところ。本州から来たお客さんはどう思うだろう!?ストーブを消し、お風呂に入って体を温め、早々に寝た。
 翌朝目が覚めると晴天。窓の外は太平洋が広がり、絶景だ。波の上には何艘もの漁船が浮かんでいる。宿のオーナー(または支配人?)に聞くと、今日はえりもには珍しく、風のない好天にめぐまれ、今年最後の昆布漁でにぎわっているとのこと。

 猿留山道ウォーキングの出発地点までは車で移動。えりも町の本町から国道336号を通ってと十勝側へ。庶野に出て、海沿いを走って目黒漁港から、内陸へ向かう。一部舗装された林道を通って、猿留山道入り口へ。さあー、出発。
 ロシアの南下政策の下で北方警備の重要性から、江戸幕府は1799(寛政11)年、松前から太平洋岸を通る根室までの陸路の整備を行ったが、その一環として開削されたのが、猿留山道である。チシマザサに覆われたこの山道を復元しようと、えりも町民有志が思い立ったのは1997年。そして、猿留山道復元ボランティア事業を実施して3年間で、この山道を一通り歩けるようになった。
 斜面を横切るようにならだらかな傾斜の山道が続く。足元には緑色や茶色のどんぐりが無数に落ちている。ここは豊かな針広混交林地帯で、ヒグマの生存環境がまだ残されている数少ない場所のようだ。鹿のフンとともに、ヒグマのでかいフンを2箇所で見つけた。遠く太平洋を眺めながら、1時間ほど歩くと沼見峠に出た。
 沼見峠からは片方に太平洋を遠望し、反対側には小さな湖「豊似湖」を見下ろせた。豊似湖は日高山脈唯一の自然湖で周囲わずか2kmに満たない小さな堰止湖。入る川もなければ、出て行く川もない。水面はきれいなコバルト色。上から見るとハート型をした湖だ。松浦武四郎の「竹四郎廻浦日記」にはこの湖は「カムイトー」と書かれている。
 峠には「妙見菩薩」と「馬頭歓世音菩薩」の二つの碑があったが、これは何と江戸時代の1859年と1861年に建立されたとのこと。
 峠から観音岳の反対側に少し登ると見晴らしのよい場所に出、百人浜から襟裳岬を一望することができる。高所恐怖症の私は残念ながら、そこまで登らず峠で待つことにした。
 帰りは反対側の斜面をジグザクに下り、豊似湖に出て、昼食休憩。湖は静かな佇まいで、透き通った湖面を見せていた。紅葉時期にまた来てみたいと思いながら屋久島のような雰囲気の漂う林道を再びバスに揺られて帰路に着いた。
 それにしても測量機材のなかった時代にどうやって日高から十勝に抜ける山道をつくったのか興味深々。
 帰りは何年ぶりかの襟裳灯台にたって岬の先の景色を楽しんだ。

歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士

2008-07-07

歴史を歩く〜旧島松駅逓所とクラーク博士 7月6日(日)
2008.7.7

(1)連日、夏日が続いている。この日も予想は31度を超す真夏日。午前9時、JR島松駅前には20人余りの参加者が集まった。
 今日のウォーキングのコースは,出発地点の島松駅からその西側に広がる田園地帯を横切って島松川の南部橋に出る。そこから島松川左岸を上流に向かって島松駅逓所まで歩き、昼食休憩し、終着地点のJR恵み野駅までの約10kmの道のり。

○農産物を運び出した島松駅
 島松駅前には商店街はなく殺風景な駅前なのだけど、近くに島松軟石でつくられた旧農協倉庫が見られ、何ともいえない趣がある。ここに駅ができたのは1925(大正15)年。
 明治・大正時代に札幌に行くのは、千歳川を船で下ったり、室蘭街道(旧国道36号)の約28キロを馬車や徒歩で行くしかなかった。1925年に札幌と苫小牧に鉄道の線路を敷くことになった。当時の市街地は恵庭と島松に別れていたため,駅も恵庭駅と島松駅に別れた。島松駅からは農産物、恵庭駅からは盤尻の材木等が運ばれた。汽笛第一声はその年の8月21日。恵庭から札幌までは1時間10分かかった。いまでも普通列車で30分だから、結構、早かった。
 
(2)島松駅から道々恵庭江別線を越えると、丘のようになった田園風景が広がる。直線道路を歩いていくと恵庭市の農業改良センターの色鮮やかなお花畑が目に入る。畑にはじゃがいもの白い花が連なっている。おしゃべりをしながら歩いていると島松川南部橋に到着した。

○ 東西蝦夷地の国境〜島松川
  蝦夷地(北海道)は当時、松前藩が支配していた。しかし、幕府はロシアの南下政策の前で松前藩のみで対応するのは無理があると、1799年、蝦夷地を東西に分けることにした。そして、太平洋側の東蝦夷地を幕府の直轄地とし、島松川がその境界線となった。

(3)島松川に沿う道は、右手に深い森が広がり、その際を歩いていく道だ。四季折々、森はきっとさまざまな表情を見せるのだろう。しばらく歩くと遠くに高い橋げたの上を走る国道36号と並走する高速道路のコンクリートの橋が見え、農家が点在するようになる。ここが恵庭発祥の地・島松沢だ。
 島松川にかかる橋・広恵橋は、この島松沢の里にフィットした情緒豊かな橋だったが、改良工事で立派な橋が今年の3月に完成し、すっかり情緒はなくなってしまった。ちなみに名前の「広恵」は北広島市と恵庭市の市境にある橋であることを示している。
 さらに、先に進むと右手にチャシ跡の案内看板が見えたが、チャシそのものは道ばたからは見えない。農家の廃屋もあり、島松軟石でつくられたサイロが少し傾いているのが印象的だった。

○ 島松沢
 谷底の集落、島松沢が日本海と太平洋を結ぶ交通路「札幌越新道」として開かれたのは明治維新の直前の1856年。その後、札幌本道、室蘭街道、弾丸道路、国道36号などと名前を変えながら、大動脈であり続け、その最大の難所として、また要所として歴史に名を残してきた。その島松沢は、1985年に谷をひとまたぎする国道の高い橋ができて、今は静かな環境の中でひっそりと息づいている。
 1872(明治5)年に札幌本道(現国道36号)の工事が始まり、合わせて島松駅逓所新設工事(明治6年)も始まった。当時の恵庭の人口は10〜20人と言われるが、島松沢には100人余りの労務者が働き、飯場の周辺には食料品店や茶店が15〜16軒、遊郭まで出現したという。
 島松川は、明治になってからは石狩国と胆振国の国境となった。クラーク博士が学生と別れたのは、ここが国境であったからと伝えられている。

○ 島松川左岸のチャシ跡
  季節毎に上がって来る島松川の豊かな魚、クリやドングリなどの山の幸が豊富な この地は、北の山を背にし南に開けた温かい理想的な環境にあり、石器時代から縄 文・擦文・アイヌ文化時代へと営々と集落が営まれたようだ。チャシは神聖な祭りの場として、また緊急避難用・防御用として築かれたと言われている。

(4)国道36号下の50メートルくらいのトンネルを抜けるとそこが旧島松駅逓所。そこに待っていただいたのは、「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」の会長佐伯昇さん。佐伯会長は、北海道大学を退官後、長く住んでいる恵庭の歴史や産業遺産・文化遺産を発掘し市民に紹介する活動をされており、昨年はこの旧島松駅逓所にたくさんの人を集めて「クラーク博士さようなら130周年フェスタ」を主催した。今回は、この島松駅逓所のガイドをお願いして、来ていただいた。
 島松川の右岸が恵庭で,左岸が北広島。今日まで残っている旧島松駅逓所やクラーク博士記念碑、寒地稲作発祥の碑は全部、北広島市側にある。しかし、駅逓所はその取扱人の3代までは実は恵庭市側にあり、4代目の取扱人になった中山久蔵が彼の邸を駅逓に使ったことから北広島に移ったことが調査で分かった。「産業と文化の遺産を考える会・恵庭」では、最初の駅逓所があった場所に案内板を立てた。
 その案内板には「駅逓は明治6年に建てられた。札幌本道は北海道の玄関口の函館と開拓使本庁が置かれた札幌を結ぶ我が国最初の長距離馬車道で,この道の完成をまって、明治5年に駅逓の設置が決定された」「駅逓では人馬の継ぎ立て、宿泊、食料の提供、公用状の逓送などの業務が行なわれた」とある。
 4代目駅逓取扱人となる中山久蔵は、明治4年に島松沢に入植し、道南から移植した赤毛種の稲からこの地方に適する地米を幾多の苦労の末につくり出し,寒地稲作の祖といわれているが、ここがそれを成功させたと地でもある。
 また、明治10年には日本の教育界に偉大な功績を残したクラーク博士と学生たちが別れを惜しんだ場所でもある。ウィリアム・スミス・クラーク氏はマサチューセッツ工科大学の学長であったが、明治9年開拓使に招かれ札幌農学校の教頭になった。わずか9カ月の在任であったが、大きな影響を残して明治10年4月16日に“Boys, be ambitious”の言葉を残して,この地を去った。
 「教育は知識を授けるのではなく、志を育てること」「クラークさんが残した言葉はもうひとつあった。それは“Be gentlman”」、人柄がにじみ出る佐伯先生の説明に参加者は耳を傾ける。
 1人がクラーク博士はこのあとどこへ向かったのですかと質問。博士は函館から船に乗って長崎に行き、そこから横浜に戻ったという(当時、函館からは長崎航路しかなかった)。帰米後の博士は不遇をかこったそうだ。

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